Origin

レースの起源(諸説あり)

レースの語源は、「わな」と言うラテン語の「Laqueue」(ラク)から古代仏語の「Lassais」(ラシ)を通じて「Lace」が生まれたとの説が主流です。

広義には、透かし模様を施した布の総称、狭義には、糸を撚りあわせたり、組み合わせたりした網状の透かし模様に作られた織物を指します。種類は大きく分けると、「ニードルポイントレース」と「ボビンレース」の2つの技法があり、双方ともに16世紀に誕生したと言われています。
多くのレースの源流がこの2つの技法にたどり着きます。そのほか、漁網から発展したものや、かぎ針編みから発展したものもレースと呼ばれています。

「ニードルポイントレース」は針(ニードル)を刺し(ポイント)てレースを作る技法でイタリアのヴェネチアで生まれました。織られた布に装飾を施すドローンワークやカットワークという刺繍技法から発展し、糸のみで羊皮紙に貼った下絵にそって、モチーフを描くプント・イン・アリア(空中レース)の技法を編み出します。これがニードルポイントレースのはじまりです。

「ボビン・レース」フランダース地方でパスマントリーという糸を組んでつくる技法から生まれました。ボビンレースはピロー(枕)に取り付けられたパターンのうえに作られます。糸を巻いたボビンをを互いに交差させてより合わせていきます。

この二種類のレースはイタリア商人により、ヨーロッパ全土へ伝えられ、各地で作られるようになりました。 双方、高度な手わざで進化し糸の宝石と呼ばれる芸術作品へとなっていきます。

Development

レースの発展

レースは誕生から瞬く間に、ヨーロッパ中に宮廷に広まり、名立たる王侯貴族たちを魅了しました。彼らがこぞって高価なレースを求めたため、それに答えるように、職人たちの技術も向上していきます。
1533年にメディチ家からフランのアンリ王子に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによって、当時イタリアで流行していたレティチェラがフランスに持ち込まれたことを皮切りに、レースは宮廷文化を語るうえで外せない存在になります。

17世紀に入ると、ルイ14世のジャン=バティスト・コルベールが財務総監に就任し、中央集権による絶対王政と重商主義政策を進め、フランスをヨーロッパにおける枢軸へ押し上げ、王や貴族の住まうベルサイユ宮殿が数々の流行の発信源となります。ブルボン王朝の最盛期を支えたのはコルベールの経済手腕だったと言われています。
彼は、大規模な産業振興政策の一環で1665年から10年間王立のレース工場を設立し、フランス産レースの品質とデザインの向上を図ります。当時のフランス産のレースは「ポアンド・フランス」と呼ばれフランスの財政を大いに閏わせました。

18世紀、ルイ15世の寵愛を受けていたポンパドール婦人の登場で、レースは最盛期を迎えます。彼女は教養豊で、文化への理解も高かったことからベルサイユ宮殿でのファッションリーダー的存在で、流行の発信者でした。彼女のファッションに欠かせないアイテムがレースであり、趣向を凝らした彼女のレースは貴人たちの垂涎の的であったと言われています。このように最盛期のレースは一国に財政に影響を及ぼし、ファッションの中心的存在だったのです。

Decline and Revival

レースの衰退、再興

1770年ルイ16世と結婚したマリー=アントワネットは、マダムポンパドールに代わり、ファッションリーダーとして常に注目を浴び、フランス宮廷によるファッションを欧州に発信していきました。一方で度重なる戦争で財政難であったフランスの国情が、彼女に潤沢にレースを購入する機会を奪います。次第に彼女も真っ白なコットンドレスを好むようになり、レース着用の機会が失われていきます。
フランスのレース職人たちの多くは、新天地を求めてネーデルランド南部(現在のベルギー)に移住したと言われています。

その後、レースは2つの大きな革命の影響を受けます。産業革命とフランス革命です。
産業革命により、機械レースが台頭したことと、分業制が確立しレースの生産効率があがりました。
フランス革命は、王侯貴族の力とカトリック教会の絶対的な威信が弱めました。
この革命のレースにおける影響は、貴族階級の力を弱めレースの需要が減るというマイナス要素と、教会がレースに課していた税金がなくなるというプラス要素がありました。
機械レースの台頭、分業制による生産効率の上昇、非課税化の3つの要因によりレースは王侯貴族だけのものではなくなっていきます。

フランス革命前後に一時陰りを見せたレース需要でしたが、消費社会とブルジョアジーのファッションが活気づくにつれ、その需要は持ち直します。
この時代のレースの復興支えたのがイギリスのヴィクトリア女王やフランスのウジェニー皇妃でした。
ヴィクトリア女王はアルバート公との挙式の際に、白のサテンのドレスに英国産のホニトンレースを用い、200人以上の雇用を生んだと言われています。この挙式で純白のドレスとレースのヴェールの習慣が広まります。
抜群のセンスと比類なき上品さでパリ社交界の花形と言われた、ウジェニー皇妃も手工レースをこよなく愛しました。1867年にパリ万博で出品されたアランソンレースのローブは、40人の職人が7年の歳月をかけて作られ、当時のファッション業界が大きな注目を集めました。

この時期、デザイン、技術にも大きな変化が見られます。

デザインに影響したのは、19世紀に日本と中国(清)が開港したことです。絵画や陶芸品などの芸術作品がヨーロッパで紹介されるとジャポニズム、シニワズリーが大流行します。ヨーロッパでは見られない、植物や動物のモチーフのデザインが現れました。特にジャポニズムの影響を受けたデザインの特徴としては、自然描写力が高くなり、アンシンメトリーであることが挙げられます。
また、ウィリアムモリスデデザイン、有名絵画のトレース、童話の一を場面を表現したレースもみられるようになりました。

技術面の特徴としては、機械で作られたチュールにハンドメイドのレースをアプリケーションしたり、ボビンレースとニードルポイントレースを組み合わせたりする技法の融合です。分業で作られたレースで大きなものは、それぞれの職人が最終的な作品がどのようなものか分からなかったほどだと言われています。

18世紀後半から19世紀にかけて、ステータス的にもデザイン的、技術的にも変容を遂げるレースですが、最盛期の手わざの数々は色あせていき、20世紀にはヨーロッパのハンドメイドレースのほとんどが姿を消すことになります。
その原因は、極細の糸を紡ぐことのできる綿、麻の品種が土壌汚染によって絶滅したことと、ファッションの変化、需要減少による職人減少が挙げられます。
ファッションの変化は、日本の着物の影響とも言われています。それまで、レースが映えるファッションが中心で、ドレスは生地もレースもふんだんに使いましたが、Aラインのドレスが登場すると、レースの使用頻度が減少しました。一説によると、Aラインのドレスは、着物から発想を得たとも言われ、日本の文化はレースの表現力に幅を持たせた一方、レースの衰退の一因になったのもかもしれません。

同時期、失われつつあるヨーロッパの手わざの一部は、宣教師一団とともに日本、中国、東南アジアなどへも伝来しました。
中国においては長い歴史の中で培われた高い刺繍技術との融合で、多くの地域で様々なレースや刺繍が作らヨーロッパ中心に輸出されました。特に汕頭刺繍は日本でも有名で、ヨーロッパの技術と中国伝統の柄が融合した独自のデザインが人気となりました。
日本では今でも作られているバテンレースの他、カットワークなども作られていたようです。
それらのレースや刺繍は、最盛期のヨーロッパレースの技術力とは一線を画しますが、品質は高く、値段も手ごろなものが多かったので一般家庭でも広く楽しめるようになりました。
宣教とともに伝えられたこれら手工レースも、21世紀の後半でそのほとんどが作られなくなりました。

レースについて

Lace

  • レースの歴史

    誕生から繁栄、衰退・再興。レースがこれまで歩んできた歴史をご紹介。

  • お手入れ方法

    レースは正しくお手入れしていただくことで長くお使いいただけます。レースのお手入れ方法についてご紹介。

  • レースの種類

    レースにはたくさんの種類があります。レースを語る上でかかせないレースの種類についてご紹介。

  • アンティーク・レース鑑定家

    長年当店とお付き合いいただいている、アンティークレース鑑定士のダイアン・クライス氏についてご紹介。